韓国は今も戦争中? 終わっていない“朝鮮戦争”とは。【わかりやすく解説】

「韓国は今も休戦中って聞くけど、どういう状況? そもそもなんで北と南に分かれてるんだっけ?」
こんな疑問に分かりやすくお答えします。
朝鮮半島が南と北に分断されており、それぞれ別の国であることは皆さんご存知かと思います。
しかし、そもそもなぜ南北に分断され、しかも南北同士で戦争をすることになったのか、このあたりは詳しく知らない…という方もいらっしゃるかもしれません。
本記事では、南北の同じ民族同士で戦争(朝鮮戦争)になるまでと、その後の流れを分かりやすく解説したいと思います。
■本記事の内容
- そもそもなぜ南北に分断された?
- なぜ南北同士で戦争が始まった?【朝鮮戦争】
- 朝鮮戦争の内容
- 朝鮮戦争の休戦、その後
-
※本記事では便宜上、朝鮮民主主義人民共和国を北朝鮮、大韓民国を韓国と記します。
また特定の思想や信条を否定する意図はありません。
※以下の『もくじ』から好きなところへ移動できます。
スポンサーリンク
もくじ
そもそもなぜ南北に分断された?
現在、朝鮮半島は北緯38度線を国境線として、北側が北朝鮮、南側が韓国という別々の国です。
なぜ南北に分断されたか。話は1945年にさかのぼります。
朝鮮半島、日本による統治から解放
1945年当時は第二次世界大戦中。朝鮮半島は日本の統治下にありましたが、この頃は分断されていませんでした。
しかし1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し正式に敗戦が決定。
それに伴って日本は朝鮮半島の統治権を失います。
戦争に勝ったアメリカ、中国、イギリス、ソ連からなる連合国は「日本の手から離れた朝鮮半島をどの国が面倒を見るか?」を決める必要がありました。
結論を言うと、アメリカとソ連です。
実は日本の敗戦が正式に決定する前に、ソ連が満州(現在の中国)から朝鮮半島の日本軍の武器を取り上げながら、どんどん南下していきました。
これを受けてアメリカは「このままでは朝鮮半島が全部ソ連のものにされる!」と思い、焦って朝鮮半島の南から上陸して日本軍の武器取り上げて北上。
-
<補足>
アメリカ・ソ連を含む国々(連合国)の中で「日本が敗戦認めたら朝鮮半島どうする?」という話し合いの結果、
「朝鮮半島はアメリカ、ソ連、イギリス、中国で助けて、5年以内に国としてちゃんと運営できるまで立て直す手伝いをしようね」と決まっていました。(ヤルタ協定)
しかしソ連が勝手に朝鮮半島全部を自分のものにする恐れがあったので、アメリカは焦って南部から立ち入ったということですね。
ここでイギリスと中国は単なる付け足しに過ぎず、実質は「アメリカ&ソ連が朝鮮半島をどういう風に立て直していくか?」という問題でした。
そしてソ連は朝鮮半島のちょうど真ん中あたりの北緯38度線で南下をストップし、そのラインより北側はソ連が、南側はアメリカが居座ります。
そして日本の敗戦が決定し、正式に立て直しにかかります。
これが現在も続く朝鮮半島南北分断の始まりです。
北はソ連、南はアメリカによる立て直しスタート
こうして北と南が分断されて始まった朝鮮半島の立て直し。
実は、アメリカとソ連は全く異なる考えの国でした。
一言でいうと、アメリカは資本主義、ソ連は社会主義の考え方でした。
アメリカの“資本主義”とは、「みんなで自由に商売して自由な経済を目指そう!」という考え。日本をはじめ多くの国がこの考え方ですね。
そしてソ連の社会主義とは、「国民の財産や給料は国が管理します。そうすればみんなが平等で格差のない国ができます!」というもの。
現在も社会主義の国で中国やベトナムがあります。(北朝鮮は2002年の経済革命以降、資本主義に移行しようと模索しています)
アメリカとソ連、強大な国がお互いに全く異なる考えだったので、仲良くできるはずもなく…。
その不仲は朝鮮半島においても『分断して統治』という形で表れたということですね。
北側ではソ連が社会主義の思想をゴリゴリに浸透させながら統治し、南側ではアメリカが従来通り資本主義で統治。
1948年に北側に北朝鮮ができます。トップはソ連が後押しする金日成(キム・イルソン)。ソ連軍の朝鮮人部隊を率いていた人物ですね。
現在のトップ金正恩(キム・ジョンウン)の祖父にあたります。
同じく1948年に南側に韓国ができます。トップは李承晩(イ・スンマン)。
このようにして南北は分断され、それぞれに異なる国が建国されました。
なぜ南北同士で戦争が始まった?【朝鮮戦争】
北朝鮮は、当時ノリに乗っていたソ連の力を借りて国としての立て直しを順調に進めていました。
当時ソ連はナチス・ドイツを破り、東ヨーロッパを社会主義の国をどんどん増やしていきながら世界中に勢力を広める強大な国。
そして強大な軍事力を持つ中国とも友好関係にあった北朝鮮。
そんな北朝鮮と対照的に、韓国は明らかにうまくいってませんでした。
韓国の李承晩政権は国民から支持されておらず各地で反政府デモが勃発し、情勢は極めて不安定。
その上経済基盤も弱かったのです。
そんな韓国を見た北朝鮮が、ソ連から教わった自国の社会主義を提げ南北統一を目標に南へ侵攻するのは、もはや必然だったのかもしれません。
アメリカ軍が韓国から撤退するなど、韓国への肩入れに消極的なアメリカを見て北朝鮮は「もし戦争を仕掛けてもアメリカ軍は介入してこないだろう」とも踏んでいました。
韓国には当時から北朝鮮のスパイが潜入しており、そのあたりの情報伝達が行われていました。
そして1950年6月25日、北朝鮮は宣戦布告もなく北緯38度線を超えて韓国に侵攻。ここに朝鮮戦争が勃発します。
朝鮮戦争の内容(1950年6月25日〜)
北朝鮮の侵攻で始まった朝鮮戦争は約3年間続いて休戦に至りました。
しかしこの3年間のうち最初の約1年間は大きく戦況が変動しましたが、後半の約2年間は北緯38度線付近での戦闘でジワジワと死者ばかり増えるというものでした。
その2つに分けて戦況を細かく見ていきましょう。
最初の1年間(戦局が目まぐるしく変動)
1950年6月25日に奇襲攻撃を受けた韓国は完全に防戦一方。
開戦時の北朝鮮軍は韓国軍の約1.3倍の人数を誇り(北朝鮮軍:約12万人、韓国軍:約9万人)、ほとんどがソ連の軍事ノウハウを叩き込まれた一流の軍人達でした。
その上ソ連から支給された最先端の兵器を持って侵攻された韓国軍は太刀打ちできるはずもありません。
あっという間に攻め込まれ、韓国軍と民間人は最初の奇襲攻撃で多数の死者を出しました。
韓国の首都ソウル陥落
(1950年6月28日、開戦から3日後)
韓国はアメリカに軍の派遣を要請していましたがすぐには来てもらえず。
そして開戦からたった3日後には首都・ソウルを北朝鮮軍に占拠されます。
韓国側にアメリカ・国連軍参戦
(1950年7月1日、開戦から6日後)
ようやく待ちに待ったアメリカ・国連軍が韓国側に加勢してくれます。
しかし、北朝鮮軍の侵攻を食い止めることができずジリジリと後退。
朝鮮半島南東部の洛東江(ナクトンガン)という川に防衛ラインを引いてなんとか食い止めますが、いつ壊滅してもおかしくない戦況でした。
そんな絶体絶命の韓国側は、指揮をとっていたアメリカ軍・マッカーサーのある作戦で形成を逆転します。
韓国側、形成逆転の“仁川上陸作戦”
(1950年9月15日、開戦から約2ヶ月後)
アメリカ軍・マッカーサー率いる韓国側は、追い込まれていた南東部とは反対にある仁川(インチョン)から上陸して攻め入り、北朝鮮の補給ルートを断ち切る※とともに、南北から北朝鮮軍を挟み撃ちにするという作戦を敢行します。
これがいわゆる“仁川上陸作戦”、またの名を“クロマイト作戦”です。
結果としてこれは大成功を収め、戦局は逆転。まもなく首都・ソウルを再び奪還することにも成功します。
-
<補足>
※『北朝鮮の補給ルートを断ち切る』とは、食料や武器などを北朝鮮の最前線まで届けられなくするということです。
当時の北朝鮮軍は南下して侵攻するものの、トラックでの物資調達は十分ではなく、兵士達は常に空腹の状態で戦っていたのです。
そんな中で追加の食料が届かないとなれば、最前線の北朝鮮軍の兵士達は戦闘どころではなくなります。
また、上陸先を仁川と特定されないために様々な場所に部隊を上陸させて混乱させたことも作戦成功の要因です。
形成逆転した韓国軍の先遣部隊は一気に北緯38度線を超え、北朝鮮の領土に踏み入ります。(1950年10月1日)
開戦以来、初めて韓国軍が北朝鮮の領土に足を踏み入れた瞬間です。
この時点でマッカーサーが北朝鮮のトップ金日成に無条件降伏を打診しますが返答はなく、戦争は続きます。
こうなると次の目標はもちろん北朝鮮軍の壊滅でした。
北朝鮮側に中国軍参戦(1950年10月)
ジワジワと北上する韓国側は、一気に北朝鮮軍の壊滅を目指していました。
しかし、ここに来て中国が約20万人の軍隊を派遣。
名目上は“志願兵”でしたが、正規軍の精鋭部隊でした。
もし北朝鮮が陥落すれば韓国と国境を接することになり、中国としてはやり辛いためそれは避けたい。
-
※Q.ソ連は参戦しないの?
A.ここまでで、なぜソ連は参戦しないのかというのが当然の疑問かと思います。
「散々北朝鮮を煽っておいて自分は戦争には参加しないのかよ!」と思いますよね。
しかしもしソ連が参戦すればアメリカとの戦争に発展する可能性があり、「第二次世界大戦後が終わってすぐにアメリカと戦争するのはちょっと…」とソ連は思いますよね。
両国は核兵器を保有する国同士だったので、直接対決することはお互いに避けたかったということです。
この両国の関係は“冷戦”という形でその後も続いていきます。
そんな中国軍が参加して北朝鮮側はまたも優位に転じます。
しかし韓国側のマッカーサーは壊滅の一歩手前であったこともありどんどん侵攻を指示。
結局韓国側は多数の死傷者を生むだけで侵攻を進めることはできませんでした。
これを受けてマッカーサーは中国本土への空爆許可をアメリカのトルーマン大統領に要請しましたが流石にこれは却下。
もしそんなことをすれば流石のソ連も黙っておらず、アメリカvsソ連の世界規模の対戦に発展する可能性があったからです。
(この時点でソ連は核兵器を保有してましたから…)
そのためトルーマン大統領は連合国に『この戦争は朝鮮半島の中だけでやります』と約束せざるを得ませんでした。
そうこうしてる内に北朝鮮側の中国軍が準備を整え、南方へ侵攻開始。
韓国側は後退せざるを得ませんでした。
休戦の話し合い開始(1951年1月13日、開戦から約6ヶ月)
この頃から、38度線近くで韓国・アメリカと北朝鮮・中国の間で休戦に向けての話し合いが始まります。
『完全に相手を壊滅させるのは不可能だ』とお互いが悟り始めた頃です。
北朝鮮は南下しすぎると最前線に物資補給ができなくなって後退せざるを得ないし、反対に韓国が北上しすぎるとソ連が介入してくるかもしれない。
「核でも使わない限り完全に相手に勝利するのは無理だな」と悟っての休戦交渉です。
とはいうものの、お互いが簡単に妥協するはずもなく、結局そこから約2年間に渡って定期的な交渉が行われていきます。
後半の2年間(戦局変わらず)
ここからは、韓国側と北朝鮮側、お互いが敵の陣地を侵攻していくことはあっても完全に攻め切ることはない、そして長引く戦いで死傷者だけが増えていくという期間が続きます。
長引く休戦交渉のために多くの命が失われていく虚しさ。
もっと早く話がまとまっていたら…と思わずにはいられません。
朝鮮戦争の休戦(1953年7月27日)、その後
1953年7月27日、長引いた交渉の末に休戦協定が結ばれました。
韓国からすると「勝手に北朝鮮が侵攻してきて始まった戦争をこんな形でやめれるか!」という論調でしたがアメリカが制して半ば強引に休戦に至ったという形ですね。
北朝鮮側も、ソ連の頑強なトップだったスターリンが死去したこともあり休戦に踏み切ることができたといえます。
同じ民族同士で争った結果多くの死傷者を生み、朝鮮半島を焼土にした朝鮮戦争は“休戦”という形で幕を引くのでした。
結局、戦争前の分断ラインとほとんど同じ位置の北緯38度線を軍事境界線として南北は分かれたまま現在に至ります。
各国の戦死者・負傷者
この戦争による戦死者は以下の通り。(自国発表)
国名 | 戦死者(万人) | 負傷者(万人) |
---|---|---|
韓国軍 | 41.5 | 42.9 |
アメリカ軍 | 5.4 | 10.6 |
その他連合国軍 | 0.5 | 1.0 |
北朝鮮軍(未発表のため推定) | 40(推定) | 45(推定) |
中国軍 | 13.3 | 23.3 |
また朝鮮戦争が終わってからの韓国は長く大統領による独裁政治が続き、国民たちがそれに抵抗する歴史を歩みます。
順調に経済発展も遂げるのですが、主にはそういった“民主化運動”の闘いが長く続きます。
それについてはこちらの記事>>韓国における“民主化運動”の歩み【わかりやすく解説】にまとめています。
おわりに
いかがだったでしょうか。
現在も“休戦状態”でまだ戦争中です。
休戦以後も北朝鮮からの挑発や国境線付近における武力衝突は発生しています。
しかしながら、この北朝鮮を絡めた韓国映画やドラマも数多く作られているという現状。
ドラマで言うと『愛の不時着』などは日本でも大ヒットしました。
私達の感覚からすると、現在も休戦状態の相手国を題材に映画を撮るということは衝撃的ですよね。
いつの日か、朝鮮半島に真の平和が訪れることを願います。
最後までご覧いただきありがとうございました。
■その他参考文献
・池 明観,『韓国 民主化への道』,岩波新書,1995年
・三野 正洋,『わかりやすい朝鮮戦争』,光人社NF文庫,2020年
・デイヴィッド・ハルバースタム,『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』,青春文庫,2012年